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中島敦展 魅せられた旅人の短い生涯

横浜市にある港の見える丘公園内の神奈川県立神奈川近代文学館では11月24日まで「中島敦展 魅せられた旅人の短い生涯」という特別展が開催されている。

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神奈川近代文学館のある港の見える丘公園

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神奈川近代文学館

私はかねてから中島敦という作家が好きだったのでポスターでこの展覧会を知って興味を持ち、初めてこの神奈川近代文学館を訪れた。

この展示会は中島敦の生涯を「旅人」になぞらえて、中島が生前に残した原稿や遺品を展示し、彼の足跡を辿るといったコンセプトであった。

 

中島敦は1909年(明治42年)に東京都四谷区(当時)で生まれた。生後間もなく両親が離婚し、父方の祖父母の家で過ごしたが5歳の頃に父が再婚し、小中学校時代は中島は奈良、浜松、京城(現在のソウル)と転々とすることになった。しかし中島は小中通じて成績は殆ど全甲と極めて優秀であった。

1926年に旧制中学を卒業し、第一高等学校(現在の東京大学教養学部などの前身)に入学し、この頃から小説の執筆を始めた。

1930年に東京帝国大学文学部国文学科に入学、大学時代は麻雀やダンスに明け暮れる傍ら、永井荷風森鴎外正岡子規といった作家の本を読み漁り「耽美派の研究」という卒業論文を執筆した。

中島は病弱だったこともあり就職には苦労したが、祖父のつてもあって横浜高等女学校(現在の横浜学園高校)の教員の職を得ることができ、この年1933年の12月には大学時代に雀荘で出会った橋本タカと結婚した。

中島の横浜高等女学校に勤務した8年間は中島の生涯の中でも平穏な時期であったと言える。

 中島は横浜市中区本郷町に自宅を構え、またこの頃に作家・登山家の深田久弥(『日本百名山』の筆者)と知り合い、彼に熱心に作品評を乞うことになる。

 

平穏な生活を送っていたように見えた中島だったが、持病の喘息の発作が悪化し、教員を続けることが困難になった。そこで1941年に療養も兼ねて南洋庁に任官しパラオの子ロールに赴任した。

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コロールの位置

日本は第一次世界大戦後のベルサイユ条約によってドイツが手放した南洋諸島(グアム島を除く赤道以北の旧ニューギニア領)を国際連盟委任統治領として監督することを認められた。南洋庁南洋諸島の行政を監督する機関である。

国際連盟委任統治にはA式、B式、C式の3つの区分があり、B,C 式は当該国の住民の水準が不十分のために受任国の介入される地域であった。南洋諸島はC式の統治方式であったため、日本政府は南洋諸島の住民に対し日本語教育の強制や神社の建立などといったいわゆる皇民化政策を推進した。中島の赴任した時期には既に日本は国際連盟から脱退し委任統治の法的根拠が薄れることになったが、日本は引き続き南洋諸島を支配することになったのである。

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コロールの南洋庁庁舎(Wikipediaより)

中島は南洋庁の編集書記として現地の小学校の教科書編纂の職務に就いた。しかし到着間もなく日本人の現地住民に対する高圧的な態度を目の当たりにして中島は、その業務にひどく辟易したという。

パラオ出発前に深田久弥に渡したいくつかの原稿が中島の渡航中に深田の手によって雑誌に掲載される(『山月記』と『文字禍』)と徐々に作家・中島敦として名前を知られることになる。

1942年3月に太平洋戦争が悪化し、民俗学者土方久功と一緒に帰国すると専業作家生活を始めるが、気管支喘息の悪化により同年の12月4日に死去した。33歳という若さでの死であった。

 

中島の作品の特徴として、中国文学を中心とした古典を元に自らの小説を創作していくというものがあるがこれは、中島の叔父で漢学者の中島端や中島竦の影響もあったと考えられる。

また、中島は日本の植民地支配を意識した作品を残していて、これは幼少期に過ごした朝鮮半島や赴任した南洋諸島での経験の影響が大きいと考えられる。日本に送った手紙の中には「現地人のことを考えれば今の自分の職には疑問を覚える」という趣旨のものも送っているのが展示にもあった。

 

私が中島敦の作品に初めて触れたのは母に勧められた『名人伝』で、高校の現代文の時間には『山月記』を読んだ。中島の生涯の詳細に触れるのは今回の展示会が初めてであったため、初めて知ることも多くありとても興味深かった。

中島の作品で多く語られる「自分とは何か」という問いは、常に病気と闘い続ける彼自身の人生と植民地支配と戦争という人間の歪みを呈した時代背景があるのではないかと感じた。

彼は余りにも早くに亡くなってしまったが、中島の作品は『山月記』を初め多くの国語教科書に採用されていたり、外国語翻訳版として多くの国の人々に読まれたり没後に有名になった珍しい作家のひとりである。生涯で残した作品は20数編、著書はわずかに2冊のみという数でも今日に至るまで名作が読み継がれることは素晴らしいことであると思う。

 

中島敦」という作家を国語の教科書でしか知らない方も是非この展示会に足を運んで、中島の「旅」の足跡を感じて欲しいと感じた。

 

それでは今回はこの辺で。

山月記・李陵 他九篇 (岩波文庫)

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