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途中下車リポートVol.6「日暮里・舎人ライナー」

お久しぶりです。ほぼ1か月振りの更新となってしまった。

今回は東京都交通局日暮里・舎人ライナーに乗った。

 目黒駅で都営まるごときっぷ(700円)を購入した。これは都営地下鉄全線・都電荒川線・日暮里舎人ライナーと都営バスが1日乗り放題という切符である。バスにも乗ることができて700円は結構お得なのでは…と感じた。

 

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目黒駅から都営三田線に乗車し白山駅で下車する。

 

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白山駅から日暮里駅まで2.3kmの距離を歩く。

 

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白山から千駄木方面に歩くと「団子坂」という坂がある。

ここは江戸川乱歩の短編小説「D坂の殺人事件」でモデルとなった坂でもある。

作者の乱歩は若い頃には団子坂にあった古書店に下宿しており、その頃の経験に着想を得た小説である。ちなみにD坂の殺人事件は後の乱歩の小説にも数多く登場する私立探偵の明智小五郎の初登場作でもある。

 

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日暮里駅の南側に広がるのが谷中霊園である。ここは約10万平方メートルの面積に約7000基の墓がある。

元々ここは感応寺(現在の天王寺)の敷地であり、感応寺は江戸時代には富くじ(現在の宝くじの前身で、寺社の資金集めの一つ)が行われ「江戸の三富」として賑いを見せた。

明治時代に入ると神仏分離政策の一環として墓地の確保を目的として明治政府が感応寺の土地を没収して当時の東京府による公営の墓地を開設したのが谷中霊園の始まりである。

有名な埋葬者には徳川15代将軍の徳川慶喜や実業家の渋沢栄一などがいる。

 

谷中霊園を抜けると日暮里駅に着く。

 

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日暮里からは今回の本題である日暮里・舎人ライナーに乗車する。

 

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日暮里・舎人ライナーは2008年3月30日に日暮里~見沼代親水公園間の9.7kmが開業した新交通システム路線である。

かつて足立区の西部は鉄道路線が無いことで「陸の孤島」と化しており、南北に走る主要道路である尾久橋通りは慢性的な交通渋滞に悩まされていた。

そこで交通問題を解消するために建設されたのがこの日暮里・舎人ライナーである。

 

2017年度の混雑率は赤土小学校前→日暮里間の187%でこれは首都圏の鉄道路線の中で5番目に高い数字である。沿線の宅地開発が進み、増加する通勤客に対策が追い付かないといった状況が続いているそうだ。開業から10年も経たずに新型車両を2代も導入していることからもその異常な状況が分かる。

 

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 日暮里を発車するとすぐに左に急カーブを切り、尾久橋通りに沿って北上する。

 

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 隅田川、荒川を越え電車は足立区に入る。他の新交通システムと同様、急加速・急減速

が厳しい。

9つめの駅の西新井大師西で途中下車する。

 

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「西」新井大師「西」駅、同じ方角が二度出てくる駅名は日本にここ以外にあるのだろうか…

ちなみに西新井という地名は「西+新井」ではなく「西新井」という1つの地名である。東武スカイツリーライン西新井駅のローマ字表記も"Nishi-arai"ではなく"Nishiarai"である。(他に方角の付く駅名として東向島や北春日部といった駅があるが、いずれも"Higashi-mukōjima"や"Kita-kasukabe"である)

 

駅を降りて環七北通りを東に1.2kmほど歩くと西新井大師に着く。

 正面の山門は改修中で、脇の入り口から入った。

 

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ちなみに、最も西新井大師に近いのは東武大師線大師前駅である。

西新井大師は正式名を五智山遍照院總持寺(ごちさん へんじょういん そうじじ)といい、真言宗豊山派の寺院である。

始まりは真言宗の祖である空海(弘法大師)が関東巡錫(じゅんしゃく=修行僧が各地を回って教えを説くこと)の途中にこの西新井の地で観音菩薩の霊託を聞き826年に寺院を開いたことであるとされる。

 

私は今でこそ横浜市民であるが生まれてから半年ばかりは足立区の梅島に住んでおり、お宮参りもここ西新井大師で行ったらしい。(勿論その頃の記憶は全くない)

参道に並ぶ店では草餅や煎餅が売られていた。

 

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環状七号線を西新井大師西駅へと戻っていると陸上自衛隊の車両に遭遇した。これは16式機動戦闘車という車両らしい。

 

西新井大師西駅からはまた日暮里・舎人ライナーに乗車する。

 

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電車は谷在家駅を出ると舎人公園の中を走行する。

舎人公園は約63Haの面積を持ち、尾久橋通りによって東西に分けられている。東側敷地の地下には日暮里・舎人ライナー車両基地がある。また公園の西側には足立トラックターミナルや、青果、花卉を取扱う東京中央卸売市場の足立北市場がある。

 

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終点の見沼代親水公園駅で下車。ここは都営交通最北端の駅(そして東京23区最北端)にあたる。見沼代親水公園とは当駅からすぐの場所にある見沼代用水沿いにある公園のことである。

 

見沼代用水は埼玉県行田市付近から取水され、見沼代用水東縁(東京都足立区に至る)と西縁(埼玉県さいたま市南区に至る)に分かれる総延長85kmの用水路である。

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 かつて、現在のさいたま市西部・川口市には「見沼」という広大な沼があった。

江戸時代に入ると開発が進み1628年には関東郡代の伊奈忠治が見沼を灌漑整備し「見沼溜井」という巨大な灌漑ダムを建設した。

しかし、土砂の流入や溜井の一部の新田開発などにより灌漑能力が低下し、周辺農民の水不足が深刻化した。

そこで、8代将軍徳川吉宗の時代に入ると享保の改革の一環で新田開発事業が奨励されたこともあり、見沼溜井の全てを新田開発し、農業用水を利根川から取水することを決定。「見沼」の「代」わりという意味を込めて見沼代用水と名付けられた。

 

この見沼代親水公園は見沼代用水東縁の終点近くに位置する公園である。

 

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 なお、さいたま市緑区には見沼代用水東縁と西縁を結ぶ運河である見沼通船堀(つうせんぼり) がある。これは日本最古の閘門式(こうもんしき)運河(水路の前後に門を造り、その中の水位を上昇させて船を移動させる方式の運河)である。

 私はこの見沼通船堀の閘門がこの見沼代親水公園の近くにあるものだと考えていたのだが、調べてみるとここからは10数キロ程離れていたので今回の訪問はあえなく断念することになってしまった。

 

見沼代親水公園駅から熊野前駅まで戻り、都電荒川線新庚申塚まで乗って今回の旅は終了。

 

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今回は1日パスを買ったことで都営交通をフルに活用することになったが、そういう東京の旅も悪くないと感じた。

それでは今回はこの辺。