SHIINBLOG

「令和」が最後の元号であってほしい

個人的に結論を先に言わない人は好きではない。

だから私は結論を最初に書いた。つまりこの記事の題名さえ読んでいただければブラウザバックをクリックしていただいて構わないということだ。

天皇陛下生前退位の意向を示したことが初めて明らかになったのは、2016年7月13日のNHKニュース7」の冒頭であった。天皇崩御による退位ではなく生前に退位するのは実に200年以上振りのことであった。

内閣は2019年の4月30日に天皇陛下が退位し、翌5月1日に皇太子殿下が新天皇に即位することを閣議決定、のちに新元号は2019年4月1日に発表することを決めた。

 

今年4月1日の新元号の発表はメディアで大々的に取り上げられ菅官房長官元号発表会見はテレビ各局やインターネットで中継されお祭り騒ぎのような盛り上がりになったことは記憶に新しい。

思えば、日本人がここまで一緒になって盛り上がることのできるイベントというのは今まで余りなかったのではないか。確かにオリンピックやワールドカップなどのスポーツ中継なども国民が一緒に盛り上がる出来事ではあるかもしれないが、ここまで今後の社会に影響を及ぼす出来事は中々ない。

 

「昭和」から「平成」になったときは昭和天皇崩御という流れからして単純にお祝いムードという訳にはいかなかったが、今回の改元崩御によるものではないために大々的に祝うことができるというのは大変喜ばしいことなのかも知れない。

確かに元号が発表されるまでは楽しかった。テレビ番組はこぞって新元号の予想を連日行い、日本人はああでもない、こうでもないともっともらしい顔でギャンブルでもしているかのように口々にわめきあった。

そして新元号の「令和」が政府から発表された。それまでの元号は中国の古典を基にすることが慣例であったが今回は初めて国書である万葉集からの出典であった。

 

「平成」という年代は一体どんな年代であっただろうか。勿論一言で言い表すことはできないが、昭和とは違って戦争のない時代を送ることができたのは事実である。

しかし、災害には多く見舞われた。1995年の阪神・淡路大震災は都市直下型地震の恐ろしさを顕著に示し、2011年の東日本大震災は観測史上最大規模の地震に加え広範囲の津波、また前代未聞の原子力発電所事故による日本のエネルギー政策や危機管理の問題について改めて国全体の在り方が問われた。

そしてこの30年間でインターネットの躍進によって巨大な情報社会へと変貌したことである。1995年のMicrosoftWindows95が発売されたことをきっかけに一般にも普及し始め、2008年に日本でもAppleから発売されたiPhoneスマートフォン普及の嚆矢となった。

インターネットがなければこのブログも開けなかったし、ましてや自分の書いた駄文を電子の衆目に晒すことなんて不可能である。 インターネットによって開かれた可能性は計り知れない程大きいものであると感じる。

 

元号が変わるということでよく「新しい時代は~」なんていう言葉を目にしたり耳にしたりする。さて「新しい時代」というのは一体なんだろう、そもそも「時代が変わる」というのは一体どういうことだろうか。

 

日本の歴史のターニングポイントと言えば645年の乙巳の変から始まる大化の改新だとか、1868年の大政奉還だとか、1945年8月15日の玉音放送だとかそういう出来事が挙げられるのだろうか。

以上の出来事の共通点を一言で言うならば「上意下達」だ。ヒエラルキーの上層にいる人間の変革によって末端の人間まで変革を求めるのが日本の歴史だった。

今回の新元号発表も一種の「上意下達」と言えるだろう。

 

私は「時代が変わる」というのはあくまで人間を取り巻く環境の変化であって人間の本質は変わらないと考えている。だから「令和」の時代は上意下達の時代ではなくて社会の人々皆で社会を良くしていくような時代になればいいと思っている。

 

この記事の「『令和』が最後の元号であってほしい」というのはそういう思いからである。

元号(和暦)には様々は議論があり世論調査によると元号を使用する人は34%にとどまるという結果も出ている。そのため元号を無くし西暦に一本化しようという人もいる。

毎日新聞世論調査

年代に元号使用34% 30年間で「半減」

https://mainichi.jp/articles/20190205/ddm/001/010/120000c 

確かに元号はこの国で長く続く文化であるし、親しみを感じる人が多いのも事実である。しかし、社会の事情とはそぐわなくなりつつあるのではないのだろうか。

 

「平成」の時代から持ち越された社会課題は枚挙に暇がない。平成の30年で解決できなかった課題を次の30年にはどのように捉えてビジョンを描くのかが必要不可欠となるだろう。

 

最後にこの動画を紹介したいと思う。

これは1992年(平成3年)の東京の一日の風景を当時としては珍しい1080pのフルHDで撮影した動画である。

27年前の映像であるが最近の動画と何の遜色のない画質で道を行き交う車や駅、人々のファッションを見ていると不思議な感覚になる。

さてこれからの30年東京は、日本はどのように変貌するのだろうか。30年前と違うのは比較する映像や動画・画像が段違いに大量に存在し、保存されているということだ。30年後の私たちはそれを見て何を思うのだろう。

 

私もこのブログを最後まで読んでくださった読者の方も死なない程度にときには適当に、ときには真面目に生きていきましょう。

 

それでは今回はこの辺で。

2019.5.1