日本屈指のローカル線と呼ばれた「三江線」。惜しまれつつも今年の3月末で全線で列車の運行が終了・廃止となったが、私は昨年の3月に乗ることができた。
三江線は島根県の江津駅と広島県の三次駅を結ぶ108.1kmの路線である。
本州で全長が100kmを超える路線の廃止は、国鉄が民営化されJRになって以来初めてのことであった。
1930年に石見江津(現江津)-川戸間が開通、1937年に浜原までが開通した。
1955年に三次-式敷間の三江南線が開通する江津-浜原間は三江北線と改称した。
1963年に式敷-口羽間が開通、浜原-口羽間が1975年に開業することによって三江北線・南線が接続され三江線が全通した。
しかし、部分開通時から利用客数は芳しくなかった。また沿線自治体の急速な過疎化による人口の激減、高速バスの台頭によって利用客の減少に歯止めがかからなかった。2008年度の平均利用客数は380人、輸送密度(1km当たりの平均輸送量)は1日当たり84人でこれは2014年4月に廃止されたJR東日本の岩泉線に次ぐ数値だった。(2016年度の平均通過数人員は83人)
2016年9月にJR西日本は2018年4月1日を廃止日になる届出を国土交通省広島運輸局に提出、2018年3月31日に全列車の運転を終了した。路線廃止後は並行する道路を走るバスに移行している。
3月13日に横浜を出発してその日に鳥取まで行き、翌日鳥取から江津まで山陰本線から三江線経由で三次、芸備線で広島に抜ける行程だった。
松江城は日本で12ある現存天守のうちの一つで天守が国宝に指定されている5城(他は犬山城、松本城、彦根城、姫路城)の一つである。
13時20分発の快速アクアライナーで江津へ向かう。
この快速列車はキハ126系気動車で、ディーゼルカーの割にはスピードを飛ばしているという感覚だった。
15時8分に江津に到着。
ここから15時15分発の三次行普通列車に乗り換える。
2017年のダイヤ改正前では江津から三次まで直通する列車は片道2本しかないことが分かる。
なお廃止直前の三江線では、日本各地から廃止になる前に乗ろうと訪れる客が急増したため列車を増発し、車両も増結して運行するようになった。
Twitterではツアー客の大量乗車による通勤ラッシュのような車内の様子がツイートされたり、列車に乗り切れない客は並行する道路を走る乗合タクシーを使ったりするなど廃止間際には混乱も生じたようだ。(その前に行けてよかった………)
三江線は江の川に沿って蛇行するようにして路線が敷設されている。そのため比較的スピードの出せないディーゼルカーに追い打ちをかけるようにしてスピードが遅い。
またキハ120系2両編成の車内は江津から乗客全員が廃止前に乗車しに来た鉄道ファンらしかった。数少ないクロスシートは埋まり、私は終着の三次までロングシートで過ごすことになった。
途中にあるのは殆どが無人駅。また「何故このような場所に作ったのか…」と思ってしまうような山中にある駅もちらほら見受けられた。
また途中駅から乗って来る客も降りていく客もない。ただ扉が開き、閉まることの繰り返しである。
途中宇津井駅は谷間に架けられた高架線上20mの場所にあった駅で、日本で一番地上高の高い駅としてファンには人気の駅であった。
このような場所に駅を建設することになったのは、山間を縫って走る路線の都合上、この場所は高架にするしかなく、地上に線路を敷設して駅を建設することも不可能だったからである。
また路線は全線を通じてあばら家のような廃墟が散在していた。車窓の廃屋を見ながらこの沿線が急速な少子高齢化・過疎化が進んでいることを実感した。
途中の口羽駅では列車の行き違い交換を行った。この時間には既に日が落ちかかっていた。口羽駅の周りにも目立った商店は見当たらず、人家が数軒あるだけだった。
時刻表だけ見ているとどうしても「到着時刻と出発時刻の書いてある駅はそこそこ大きくて栄えていそう」という錯覚に陥ってしまいがちなのであるが、三江線に至ってはその考えは通用しなかった。本当に全線を通じて「僻地」なのである。
江津から4時間44分かかって18時59分に終着の三次に到着。
結局この電車はほぼ全員が終点の三次まで乗り通した鉄道ファンだったと思う。
三江線を乗り通した感想は、自分が今までに経験したことのないような僻地を走り続けたので圧倒された。そもそもこのような路線が今まで残り続けたこと自体が奇跡のように思えた。
昨今では2016年にJR北海道が自身の持つ鉄道路線の半分について「JR北海道単独では維持が困難」としてバス転換に際して地方自治体の経済的な支持が必要だと訴えた。
「過疎と公共交通機関」という課題は少子高齢・過疎社会の進行に伴って深刻化していくと三江線を乗り通して感じた。